【 高崎山 清涼院 龍廣寺 】
慶長3年(1598)、徳川四天王の一人で井伊の赤鬼と称された井伊直政が徳川家康の命によって居城を箕輪から和田の地に移すこととなった際、箕輪城下の龍門寺住職である白庵秀関和尚を開山として開山した寺院です。
直政は縄張り候補地に鷹を放ったところ、一本の松の木に留まったという。和田という地名を鷹ヶ崎とするか、松ヶ崎とするか思案し、白庵秀関和尚に問うと、「生物には生死栄枯あり。公が命を奉じて、この城を築かれることは盛事大名である。成功高大の義を採って高崎と称すべし」と答えたという。
直政は大いに喜び、和田を高崎と改め、さらに寺院山号を高崎山とするように命じたという。清涼院とは直政の戒名であり、正式名称に入れられた。
山門は嘉永7年(1854)建立されたもので、境内には「村上鬼城の墓」「ロシア人兵士の墓」がある。
本堂は大正5年(1916)建立。
高崎市内には井伊直政に関連した場所というものは少ない。箕輪城も井伊の城のイメージより長野氏の城と認識されている方が多いような感がある。
そんな高崎にあって、井伊直政が高崎城主であったことを感じさせてくれるのが、「龍廣寺」である。
井伊は彦根って思っているかもしれませんが・・・、高崎・安中も井伊ですよぉ(^^♪って思っていますが、NHK大河ドラマ『女城主・井伊直虎』の時にもま~ったく井伊由来の地というPRしていませんでしたぁ💦💦
(参考資料)
現地案内板