日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

高山右近高槻天主教会堂跡(大阪府高槻市)

 

  【 高山右近高槻天主教会堂跡 】

 

          所在地: 高槻市大手町3-46

 

 

 天正元年(1573)、白井河原の戦いで討死した和田惟政の子で、高槻城主であっ

た和田惟長を討ち、高山飛騨守友照・右近重友が高槻を支配するようになる。

 

 父子ともに熱心なキリシタンであり、天正2年(1574)、領民へのキリスト教

教に力を注ぐため、右近の父である高山飛騨守友照が天主教会堂を建立した。

 

 ルイス・フロイスは『日本史』のなかで、「大きな木造の会堂と宣教師の宿舎、池を

設けた美しい庭園を備え、一角には大十字架が建てられている」と記している。

 

 また天正9年(1581)頃には、家臣以下2万5千人の領民の8割強がキリシタン

に改宗し、高槻領内には20以上の教会があったと記している。

 

 同年3月には、巡察師のヴァリアーノを迎えて天主教会堂で復活祭が催され、天正

0年(1582)にはセミナリオ(神学校)も設立されるなど、高槻はあたかもキリシ

タン国家の様相であったという。領内は廃寺が増え、寺は打ち壊されて教会建設の部材

として活用されたという。

 

 教会には墓地もあり、平成10年(1998)に実施された発掘調査で計27基の墓

が検出している。棺の蓋に十字架を墨書した木棺、木製ロザリオなどが出土し、高山父

子によるキリスト教布教の実態が明らかとなった。

 

 しかし、天正13年(1585)、高山右近重友は明石6万石で転封されると、高槻

豊臣秀吉の直轄領となり、その直後に伴天連追放令が施行される。これ以後、キリシ

タン信仰は急速に衰退するとともに、天主教会堂も破壊されている。

 

 

 高槻商工会議所前に石碑が建立されているのみですが・・・、高槻の歴史を知る上で

重要な史跡です。がっ、注意していたにもかかわらず💦仲間に声を掛けられるまで全く

その存在に気付かずにスルーしそうになりました(+_+)

 

 高槻市には「高槻 まちかど遺産」というものが多々あり、そちらを気にするあまり気

づかなかったのであります(>_<) 今後の教訓としなければと感じています💦💦

 

 (参考資料)

   高槻の史跡          高槻市教育委員会

   現地案内板