更新が飛び飛びになってしまっている日本史跡研究会 令和4年度 第2回現地踏査
『これからの文化財保護と活用を考える -高槻市踏査を例として-』💦
さて最初の目的地までの「高槻 まちかど遺産」を探し歩きつつ、そうこうしているう
ちに目的地に到着!!
🔵 野見神社 高槻市野見町6-6
9世紀末、この地に疫病がはやり、神託により牛頭天王を祀ったところ、疫病が治
まったことから社殿が造営されたという。
高槻城の城内守護として崇敬されるも、高山右近が城主となると・・・キリシタン
であった右近によって社殿は破壊されてしまった。
元和5年(1619)、松平家信が高槻城主となると、社殿は再建されている。
通常であれば「野見神社」の写真を掲載するのですが・・・、な、なんと撮影し忘れ
という大失態(>_<) 御朱印は頂いていたのでそちらで💦
境内には寛政5年(1793)、高槻藩主・永井直通が初代・永井直清を祭神として
創建した「永井神社」が鎮座しています。
参拝を済ませ、一行は次の目的地を目指します!!
昭和60年(1985)、高槻市立第一中学校体育館新設に伴う調査によって検出
されています。
さらにこんなところにも「高槻 まちかど遺産」案内プレートが💦
歩道脇の生垣の側面に💦💦💦 本当に気付かないでしょ💦💦💦
この案内プレート付近は「高槻城絵図」から外堀の跡であったことから設置されて
います。
さらに、さらに・・・、
🔵 旧陸軍工兵隊の営門及び哨兵所跡 高槻市城内町
明治42年(1909)から昭和20年(1945)まで、旧高槻城内のほぼ全域
は工兵第四聯隊の駐屯地でした。
戦争遺跡と分類される歴史遺産が残されていることは高槻の文化財行政の評価を高め
ますね。昨今では戦争遺跡は保存が困難との観点から、いとも簡単に破壊されるケース
が目立ちます💦今後も伝えて欲しい遺産です。
異常のように、いろいろな史跡を巡っていますが、既に次の目的地には到着している
のです。それは次回に・・・。
その3 に続く