【 大豆生田砦跡 】 評価 ★
別 名: 島崎城
築城年代: 天正10年(1582)
築 城 者: 藤巻伊予守
区 分: 丘 城
現 状: 須玉第一浄化センター・墓地
『甲斐国志』に「大豆生田ノ砦 若神子ノ東南拾四五町 中間ニ玉川ヲ隔ツ 壬午ノ時北
条方ヨリ砦ヲ構ヘタル処也 土堤堀ノ形多ク存シテ彊域広ク 鏃ノ中ニ村戸アリ 里人云 当
筋ニ七屋敷ト云アリ 其一ニテ此所ハ藤巻伊予守之ニ居ルト 今に間鎖ノ井他屋ナド云名
存シタリ・・・」とある。
また同書巨摩郡中郡筋には「大豆生田 里人相伝フ 南胡、今福 今ノ釜無河ノ灘ニ村里
在リ、何ノ頃カ河決ノ為ニ流亡シテ人民逃レ去レリ・・・一説ニ大豆生田流亡シテ替地
ヲ賜ハリ逸見筋ニ移ル今ノ大豆生田村是ナリト・・・」と記されている。
『家忠日記』には「廿九日吾兵敵地ニ至リ而稲ヲ刈ル 敵豆生田ヨリ出而之ヲ襲フ 吾
前隊敵ト戦フ 北ニ追イ而 終豆生田ノ砦ヲ破ル」と記されている。
大豆生田砦はこの地の土豪である藤巻伊予守によって築かれたとされ、天正10年
(1582)、本能寺の変の後に徳川家康と北条氏政が甲斐國支配を争った天正壬午の
乱で北条方として砦に拠ったという。
徳川方の松平家忠が大豆生田砦攻略に向かい、これを破ると獅子吼城も落城し北条勢
は甲斐から撤退することとなる。
藤巻伊予守は天正18年(1590)、北条氏滅亡まで北条家臣として仕えたのち、
大豆生田に戻り帰農したという。
全く遺構は残されていないものの、須玉川沿いには天正壬午の乱の舞台であることを
示す旗が掲げられている。
砦跡は再訪であったのだが・・・以前はなかったように記憶しており、令和5年(1
2023)放送の大河ドラマ『どうする家康』にあやかったものだろうか。
いずれにせよ、こうした旗があるだけでも徳川・北条の争いの舞台であったことが分
かるので良い事なのだろう。
(参考資料)
甲斐の山城と館 上 北部・中部編 宮坂武男 戎光祥出版