【 増山雪斎博物図譜関係資料 虫塚碑 】
文政4年(1822)、伊勢(現在の三重県)長島藩主・増山雪斎の遺志によって、
増山家菩提寺・寛永寺子院勧善院内に、写生に使った虫類の霊を慰めるために建立され
た。
碑は自然石で、正面に葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自
筆の詩が刻まれている。大窪詩仏、菊池五山ともに江戸期の著名な漢詩人である。
増山雪斎は宝暦4年(1754)生まれで、本名を正賢といい、雪斎は号である。ま
た、玉園・蕉亭・巣丘陰人など多くの別号もある人物で、江戸の文人として名高い大田
南畝や大坂の豪商・木村兼葭堂など広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者となった。
その一方、自らも文雅風流を愛し、中国清王朝の画家である沈南蘋に代表される南蘋
派の写実的画法に長じ、多くの花鳥画を描いている。その中でも虫類写生図譜『虫豸
帖』は、精緻さと本草学に則った正確さで知られている。
昭和初期、勧善院が寛永寺に合併されたことから現在地に移転しています。
元禄期(1688~1704)から、貝原益軒が著した『大和本草』に代表される本
草学(動植鉱物の薬用について研究する学問)が発展し、その影響もあり多くの秀作が
世に出ることとなったのだが、増山雪斎の『虫豸帖』もその一つ。後の博物学の先駆け
であり、その描写は今なお色褪せることは無い。
各地の博物館所蔵品にも同様の資料が展示されていることもあるので、注目していた
だきたいとともに、研究目的のためとはいえ生類の生命を奪ったことを心に留め、遺言
として塚を建立することを願った増山雪斎という人物にも畏敬の念を感じてもらいたい
ものである。
(参考資料)
現地案内板