日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

旧陸軍岩鼻火薬製造所址(群馬県高崎市)

 

  【 旧陸軍岩鼻火薬製造所址 】

 

    所在地: 高崎市綿貫町 (群馬の森一帯)

 

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           ( 廃墟となった製造所の建物 )

 

 県立公園「群馬の森」・日本火薬㈱・独立行政法人 日本原子力研究所一帯が戦争遺跡であることをご存知の方はどれほどいらっしゃるだろうか?

 

 明治15年(1882)11月、富国強兵を目指した明治政府は、火薬類の軍需・民需の急増に応えるため、烏川沿岸であり、当時唯一の動力源であった水車の利用に適していたこと、船便があり東京までの水運があったことから、岩鼻の地に「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」が建造された。

 先に建造されていた板橋火薬製造所に次ぐ陸軍火薬製造所として稼働している。 

 

 明治27年(1894)、日清戦争での軍用火薬は黒色火薬であり、陸軍板橋火薬製造所・海軍(のちに陸軍)目黒火薬製造所で供給されている(岩鼻火薬製造所も火薬製造は行われていたが、この時には使用されていない)。

 

 明治38年(1905)、日露戦争中に陸軍は旅順攻略戦(東鶏冠山北堡塁)に於いてノーベル社製のダイナマイトを使用して大成功したこと、戦時中の鉱業用爆薬の需要が増加したことから、工学博士・石藤豊太を所長として、明治39年(1906)、陸軍唯一のダイナマイト工場として製造を開始し、従来の黒色火薬と併せて、軍用火薬、民間用産業火薬の生産・供給が行われています。

 

 また同年、板橋火薬製造所では黒色火薬の製造が中止されている。

 

 大正12年(1923)、東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠が合併したことから、「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」と名称変更。

 当時軍縮の影響もあり、軍用火薬の平時注文は減少していたのであるが、9月に発生した関東大震災によって被災した目黒火薬製造所の残存設備が岩鼻火薬製造所に移築され、工場は増設されている(目黒火薬製造所は翌年に廃止)。

 こうしたことから、岩鼻火薬製造所は陸軍唯一のダイナマイト製造とともに黒色火薬製造を一手に担うこととなった。

 

 

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 昭和に入り、より威力の強い無煙火薬の製造が開始されるなど、軍用火薬製造の比重は増加し製造所は拡大していった。

 

 昭和12年(1937)、日中戦争が勃発すると、陸軍軍需動員の実施が発令され、全設備の昼夜運転によって増産体制となり軍事体制下に置かれることとなる。

 赤紙で軍に徴兵される従業員もいたことから、未経験者も増加。これが原因で爆発事故が多発するようになった。

 

 昭和13年(1938)の事故の際には死者13名、重軽傷者5名という犠牲もありました。(当然のことながら、創業以来たびたび事故は発生しており、近隣に多大な被害をもたらしている。こうしたことから、敷地内には土塁が築かれていました)

 

 昭和15年(1940)、「東京第二陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所」と名称が変更。

 

 昭和17年(1942)、隣接する八幡原火薬庫北側を用地買収して、追撃砲の装薬製造工場が建設されています。

 

 

 昭和20年(1945)、敗戦によって日本火薬製造会社(現在の日本火薬㈱)は、民需生産工場への転用申請を行い、昭和34年(1959)、正式に払い下げが行われています。

 

 

 軍事工場であった「岩鼻火薬製造所」ですが、通常米軍による空爆が行われたはず…。

 高崎・前橋は実際に空襲によって被害がありました。ですが、「岩鼻火薬製造所」は事故防止のために植林した樹木によって空襲がまぬがれています。

 

 

 令和を迎え、戦争の記憶が風化されていくような気も致します。考古学の世界でも「戦争遺跡」というものへの注目度が増してきています。

 身近な場所にも戦争の痕跡・記憶がある…だからこそ、二度と戦争は起こしてはならない。

 現在の平和は過去の過ち、その反省の上に成り立っています。過去の過ちを繰り返さないように「戦争遺跡」にも足を運んでいただきたいと思います。

 

 (参考資料)

    群馬の森 現地配布パンフレット