日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

須和田遺跡(千葉県市川市)

 

 

   【 須和田遺跡 】

 

    所在地:市川市須和田2-34 須和田公園内

 

f:id:nihonshiseki:20190712153550j:plain

 

 真間の台地から約700mほど東に延びる須和田台地のほぼ中央に位置している縄文時代から平安時代初期の複合集落遺跡が「須和田遺跡」である。

 

 昭和8年(1933)から昭和10年(1935)、明治大学杉原荘介氏らによって発掘調査が実施され、文様が描かれた弥生時代中期の土器数十点が出土した。

 

 昭和17年(1942)、杉原氏は南関東最初の弥生土器「須和田式土器」として型式設定されている。

 また、杉原氏は出土した土師器に「真間式土器」の名称を付けており、土器編年上重要な位置付けをしている。

 

 昭和18年(1943)、忠霊殿建設による太鼓塚古墳の削平と付近の発掘調査が実施されている。

 

 昭和26年(1951)、明治大学による市川市立第二中学校校庭の発掘調査実施。

 

 昭和28年(1953)、早稲田大学・滝口宏氏らによる忠霊殿南の発掘調査が実施された。

 

 以上にように度重なる発掘調査によって、「須和田遺跡」は弥生時代中期から平安時代初期にかけて集落が営まれたことが明らかとなった。

 

 その後、昭和42年(1967)から昭和44年(1969)にかけて明治大学による発掘調査、昭和45年(1970)には市川市養護学校増設工事に伴う発掘調査が実施され、弥生時代の集落地域が推定され、古墳時代には住居数も増加し、集落の範囲が拡大したことが明らかとなっています。

 

 昭和42年の調査で甕形土器の実態が明らかにされたことで、須和田式土器の内容が補完されている。

 

 現在では、須和田式土器に先行する弥生土器の存在が明らかとなり、須和田遺跡出土土器群は須和田式土器でも後半に位置付けられ、埼玉県・池上式土器と並行するものと推定されています。

 また、弥生時代後期の久ヶ原期、弥生町期、前野町期の住居址が検出されていることも「須和田遺跡」を語る上で重要かと思います。

 

 考古学研究は日進月歩であり、様々な考察が重ねられ、新たな事実が明らかとなっている。

 しかし、「須和田遺跡」は弥生時代中期の「須和田式」、飛鳥~奈良時代の「真間式」、奈良~平安時代の「国分式」土器の標式遺跡として覚えておく必要はあるかと思います。

 

 

 「須和田遺跡」は須和田公園内に案内板が設置されていますが、埋蔵文化財分布図では広域に分布していますね。

 須和田公園内には竪穴住居址が復元されていましたが、不審火によって焼失してからはフェンスで土台のコンクリートが囲まれています。

 全国各地で心無いことが行われていますが、その地域の歴史を大切にする心を持って、後世に歴史を伝えてもらいたいものです。

 

 (参考資料)

   いちかわ時の記憶          市川市教育委員会

   現地案内板