日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

清涼山 喜光寺(奈良県奈良市)

 

 【 喜光寺

 

    所在地: 奈良市菅原町508

 

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 法相宗 別格本山。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来坐像(平安時代造像)。大和北部八十八ヶ所霊場第25番札所。

 

 『行基年譜』によれば、養老5年(721)、寺史乙丸なる人物が行基菩薩に平城京右京三条三坊にあった住居を寄進し、養老6年(722)、行基菩薩によって創建された。

 創建当時は「菅原寺」と称している。行基菩薩建立の四十九院の一つであるとされる。

 菅原の地は菅原氏発祥の地として知られ、菅原道真公誕生の地伝承地の一つです。

 

 行基菩薩は東大寺造営に当たり、本堂を参考にしたとの伝承が残されており、試みの大佛殿と呼ばれています。

 そう言われると、東大寺大仏殿に似ている気が増すように感じませんか?

 

 また、「菅原寺記文遺戎状」では、霊亀元年(715)、元正天皇の勅願によって創建されたと記されている。

 

 天平20年(748)、聖武天皇が参詣した際、本尊(創建当初の本尊が何であったかは不明)より不思議な光明が放たれ、これを喜んだ聖武天皇より「喜光寺」という寺号が下賜された。

 

 『大僧正舎利瓶記』によれば、天平21年(749)、行基菩薩は喜光寺において82歳で入寂したという。

 

 中世には興福寺の末寺となり、興福寺塔頭の一つである一乗院に属している。

 

 明応8年(1499)、細川政元家臣・赤沢朝経によって焼き討ちにあい、伽藍は焼失したが、間もなく再建されている。

 

 明治時代、薬師寺の末寺となった。

 

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 昭和44年(1969)、境内の発掘調査が行われ、現在の喜光寺本堂は、奈良時代創建の本堂址に建立されたことが明らかとなっている。創建金堂の基壇は東西28m、南北21mの規模であった。

 そこから南に42m離れた地に南大門址と推定される建物址が検出している。

 

 写真は本堂内部のものである。

 平成31年(2019)1月28日、奈良大学は額安寺から購入した木造四天王像のうち、広目天像・多聞天像二体を解体修理する過程で、計7ヶ所から「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文が発見されたと発表した。

 四天王像は神仏分離をうけて、喜光寺から額安寺に移されたとの伝承があり、それを裏付けている。

 

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 (参考資料)

   喜光寺配布パンフレット

   現地案内板