【 斎音寺城跡 】 評価 ★
別 名: 藤原清河屋敷
所 在 地: 奈良市尼辻南町
築城年代:
築 城 者:
区 分: 平 城
現 状: 天満神社
橿原考古学研究所公式HP「奈良県の包括埋蔵文化財マップ」には、城跡であると同時に「済恩院址」として登録されている。
奈良時代、この地には藤原四家(式家)の藤原清河の屋敷が構えられていた。
天平勝宝4年(752)、清河を大使、副使には吉備真備を伴った遣唐使が派遣された。
入唐した清河は、無事役目(この時の大きな目的の一つに戎師を伴い、帰国することであり、高僧・鑑真を伴うこととなった)を果たし帰国の途に就いた。
がっ、清河の搭乗した船は難破してしまい、清河は再び唐都・長安に滞在せざるを得なくなってしまう。
その後、唐は安史の乱など内乱が激化し、遣唐使の派遣が滞るようになったことで、清河は唐の地で客死している。
『類聚国史』や『諸寺縁起集』によれば、延暦11年(792)、清河の邸宅址に済恩院が建立されたという。
中世になると、この地に城郭が築かれたのであるが、築城年代・築城者など詳細な歴史は不明である。
推測ではあるが、済恩院が武装化し城郭寺院として機能した時期があったのかもしれない。
『大和志(五畿内志)』に斎音寺城の名が見られるが、これは地誌という性格であることから記載されたのであろう。
現在、天満神社が建つ地が城址であるが、目立った遺構は確認出来なかった。
『日本城郭体系』の記事には遺構が残ると記されていたのだが…神社境内の土塁のような高まりが土塁であるとは縄張がはっきりしないことから断言出来ない。
宮内庁は「垂仁天皇陵飛地」との標柱を建てており、垂仁天皇陵陪塚を利用した城郭であったのだろう。
(参考資料)
橿原考古学研究所公式HP
日本城郭体系 10 三重・奈良・和歌山 新人物往来社
大和志 大和国史会