日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

内ヶ島屋敷跡(群馬県太田市)

 

  【 内ヶ島屋敷跡 】     評価 ★

 

   別  名:

   所  在  地:     太田市内ヶ島町

   築城年代:    暦応4年(1341)

   築  城  者: 佐貫内島彦七入道・佐貫孫六入道

   区  分:       屋  敷

   現  状:        宅地・耕地

 

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        ( この林の奥にあるお宅が屋敷址である )

 

 「正木文書」中に、暦応4年(1341)2月10日付で、関東管領上杉憲顕から佐貫江口又四郎入道に、西内島の田地、佐貫内島彦七入道、同孫六入道跡を、勲功の賞として預ける旨を執達した文書が残されている。

 

 この「内ヶ島屋敷跡」は、佐貫内島彦七入道・孫六入道の屋敷として築かれたとされる。

 

 「正木文書」には、「一宇在家付田、北田五反半、南田三反、合八反半、当作大夫四郎入道」とあり、内ヶ島屋敷の付田のことであろう。

 

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                ( 堀跡 )

 

 佐貫氏はその後、永享12年(1440)、結城合戦で没落していることから、屋敷もこの時期には廃されたものと推測される。

 

 遺構としては郭址・虎口・土塁・堀跡が残されているのだが、往時のものなのかは微妙…。室町期の遺構が現在まで残っていることは考えにくく、後世に屋敷構えされた際のものとも考えられるのではないだろうか?

 とはいえ、『太田市史』に遺構として掲載されているのだから、往時のものとも考えられるのだが…。

 屋敷は、東西70m、南北60mの方形で、虎口は南と東の両面にある。字名は「堀の内」、付近一帯は「内出」ということからも、戦国期に屋敷として使用されていた可能性がある。

 

 ( 参考資料 )

   太田市史 通史編 中世