【 平城宮 東院庭園 】
拝観料: 無 料
休館日: 月曜日(祝日の際はその翌日) 年末年始(12/29~1/3)
昭和42年(1967)、発掘調査が行われ、平城宮東張出部の東南隅に大きな庭園池の遺構が確認された。
この場所は『続日本紀』にみえる東院にあたることから、東院庭園と名付けられ、発見を契機に昭和51年(1976)・昭和53年(1978)・昭和55年(1980)にかけて発掘が継続され、園池の全体像が明らかとなった。
平成5年(1993)、東院庭園復原整備が開始されるとともに、周辺の調査も平成12年(2000)まで継続。同年に復原整備事業も完成している。
こうした発掘調査の結果、東西80m、南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線を持った洲浜敷の池を設け、周囲にいくつかの建物を配していたことが確認されました。
東院庭園の園池は、神護景雲元年(767)、称徳天皇が瑠璃色の瓦を葺いた東院玉殿を建設したのを機に、前期・後期に分けることが可能です。東院玉殿では、宴会や儀式が催された迎賓館にあたる施設であったと考えられています。
また、光仁天皇の建てた揚梅宮もこの地にあったと推測されています。最近では、聖武天皇の南苑(南樹苑)もこの場所を中心に営まれたとする説も提唱されています。
昭和53年(1978)、文化庁『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』に基づき復原整備は行われています。
復原整備に際しての基本方針は、
➀ 奈良時代後半の庭園の姿および建物を復原整備する
② 遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原す
るが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する
③ 出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料を元に、植栽樹種を選定し、古代庭
園にふさわしい景観を復原する
であり、基本方針に従って復原整備されています。
( 園池 築山石組 )
しかしながら、建物の復原にあたっては建物上部がどのような姿であったのかは不明なことから、中央建物は「法隆寺伝法堂」、北東建物は「法隆寺食堂」を参考に復原しています。
すなわち、建物は推定復原であるのです。拝観の際はその点には十分気を付けて下さいね💦
推定復原であることが一番理解しやすいのが、隅楼です。この建物、何処かで見覚えないでしょうか?そう、宇治平等院鳳凰堂を模した建物になっているのです💦
これには裏話がございまして・・・、復原にあたっては考古学者や建築学者など多彩な方々が「あ~でもない。こ~でもない。」を喧々諤々の議論が交わされたそうです。建築学者の立場から言っても、考古学者の立場から言っても隅楼上部の鳳凰はあり得ないのですが・・・、観光面を考慮して欲しいという声もあったようで💦
結果。鳳凰が取り付けられました。議論に参加していた奈良大学文学部教授・上野誠教授曰く「今後、同様の遺跡から鳳凰が出てくる可能性も無くはない。後で鳳凰を取り付けようとしても予算が得られない。鳳凰を後でなかったとして取り外しも可能だぁ」
皆さん、ぐうの音も出なかったでしょうね。上野教授の御人柄がわかります(^^♪
平城宮跡も朱雀門広場が出来たりと奈良市の観光拠点として整備されつつありますが、観光考古学の観点から題材にするにはうってつけの場所ですね。
広大な敷地をレンタルサイクルで散策するのも一興ですし、何度かに分けて散策するのも乙なものです。
大極殿や朱雀門は訪れたけれど、東院庭園は訪れたことがない💦という人も居るのではないでしょうか?
発掘調査に基づいた復原がされている庭園ですので、平城宮跡見学の際には必見ですよぉ(^^♪
(参考資料)
現地配付パンフレット
現地案内板