【 平林館跡 】 評価 ★★★
別 名: 館城
築城年代: 康永2年(1343)頃
築 城 者: 市河経高
区 分: 館
現 状: 国中平神社
鎌倉時代、平林は志久見郷に属し、その一つの中心地であったとされる。市河盛房・市河助房などの市河氏惣領家が平林の地頭として相伝していた。
康永2年(1343)、平林村は惣領家から一族の市川経高に譲られており、この時期に居館として構えられたものと考えられる。
正平11年(1356)、南朝に属した市河経高は北朝に攻められたという。
『長野県町村誌』には、「天正年間(1573~1592)、越後春日山城主・上杉景勝の旗下であった平林蔵人なる者居城する所たり」と記されている。平林氏は市河経高の子孫とされている。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津転封に伴い、平林蔵人もそれに従い、館は廃されている。
慶長17年(1612)、居館跡に飯綱大明神が祀られ、その後、周囲の八社を合祀して、社号を国中平神社と称した。
南北50m余、東西北辺で50m、南辺で40mほどの方形居館である。西側と北側には良好に土塁が残存し、西側内部には土塁痕がある。
土塁を取り巻く形で腰曲輪と堀が残され、虎口は現在の参道であったようである。
西側の土塁が二重になっているが、西側には古くから越後に通じる東谷筋道があり、対岸への渡し場があったことから、西側の守りを重視した為ではないかと思われる。
堀跡を撮影してみたものの、見事な藪である。この時期は藪蚊が飛び回り、突入を躊躇わせる💦
「平林館跡」は、国道117号線沿いにあるのだが、国道からは国中平神社社叢が見えるのみであり、一段高い位置に集落があることがわかる。
「平林館跡」のような良好に遺構の残る城館跡には久々に訪れた。やっぱり土の城は良いと改めて感じます(^^♪
(参考資料)
信濃の山城と館 8 水内・高井・補遺編 宮坂武男 戎光祥出版
現地案内板