【 長谷川昭道顕彰碑 】
文化12年(1815)、信濃国松代藩士・長谷川政次の子として生まれる。
松代三山と称される鎌原桐山からは漢籍、山寺常山から兵学、佐久間象山から西洋砲
術を学び、若くして頭角を現す。
天保10年(1839)、松代藩8代藩主・真田幸貫の嫡嗣である真田幸良の近習と
なるも、幸良は早世。弘化2年(1844)からは郡奉行兼勝手役として藩の財政整理
に当たる。嘉永5年(1852)からは藩校・文武学校建設に務め、完成後は藩士に兵
学を指導。さらに慶応元年(1865)には上洛して京都留守居役を務めている。
慶応3年(1867)、大政奉還後には攘夷の建白書を提出し、勤皇思想を藩是と提
案。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦い勃発を江戸に急報したことで、松代藩
を明治新政府への恭順へと導いた。
同年、新政府に出仕し軍務官判事試補、徴士権弁事となる。また学校掛として設立の
建白、皇学所・漢書所御用掛として京都の学政にあたり、京都大学設立の基礎を築いて
いる。
明治2年(1869)には太政官権大史となり、明治3年(1870)には皇居で明
治天皇に拝謁。その後、官を辞して松代に帰郷。旧主・真田幸民より賞典禄35石及び
感状を下賜された。
明治30年(1897)、享年83で没。大正4年(1915)、正五位に追贈され
ている。
長谷川昭道は朝敵として新政府から松代藩が攻撃されることを防いだ勤皇家である
顕彰碑も建立されるほどの人物でありながら、松代散策を楽しむ多くの人々も訪れた
ことがないという方が多いのではないだろうか。
地域にとっての偉人であり、京都大学設立に携わった人物として、松代を訪れた際に
訪れてもらいたい碑の一つである。
(参考資料)
現地案内板