【 大石良雄等自刃跡 】
所在地: 港区高輪1-16-25
元禄15年(1702)12月15日未明、47名の赤穂浪士は本所吉良邸に討ち入
り、2時間余の激闘の末に吉良義央の首級を挙げて本懐を遂げた。
大石内蔵助良雄ら17名は、肥後熊本藩・細川越中守綱利の高輪下屋敷にお預けとな
った。綱利は良雄ら17名を厚遇したと伝わり、「細川の 水の(水野監物)流れは清
けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が伝わってい
る。
仇討ちを義挙とする世論の中、幕閣は助命すべきか?死罪か?で揺れたが、天下の法
を曲げることはできないとした荻生徂徠らの意見を容れた徳川綱吉は、陪臣としては異
例の上使を遣わした上で切腹を命じている。
元禄16年(1703)2月4日、大石ら17士は自刃したが、永青文庫に伝わる浮
世絵「義士切腹之図」では、畳三枚の上にさらに布団を敷かれるなど、自刃に際しても
細川家の厚遇ぶりが伝えられ、綱利は陰から自刃の様子を見ていたと書かれている。
さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」とし、17士の遺髪を分けてもらい、
義士の墓と供養塔を建て、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし
ながら、様々な事情が重なったことで守られることなく、破却されてしまった。
なお「大石良雄等自刃跡」碑の建つ地は、厳密には旧細川邸から少し離れた位置に建
立されたものであり、切腹した場所ではない。
また、碑が建立されたのは大正期であることから、戦前の楠木正成ら義士に対する当
時の社会情勢によるものと推測される。