日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

末松廃寺(石川県野々市市)

 

  【 末松廃寺 】

 

      所在地: 野々市市末松2-247ほか

 

 

 石川県のほぼ中央に位置し、標高38mほどの手取川扇状地の扇央地に「末松廃寺」

は所在する。

 

 天保11年(1840)、加賀藩士・津田鳳卿が遺跡を訪れ、塔心礎を計測し、これ

が地元では唐戸石と呼ばれていたと『石川訪古游記』に記している。塔心礎は明治21

年(1888)、大兄八幡神社に運び込まれ手水鉢に転用されている。なお塔心礎は長

径2.24mで、直径58㎝のほぞ穴が穿たれている。

 

 

 明治44年(1911)、耕地整理事業が行われ、多くの瓦や土器が出土したと伝わ

り、大正10年(1921)、石川県史跡調査嘱託されていた上田三平によって初めて

考古学的な調査が実施されている。

 

 昭和12年(1937)、石川県立金沢第一中学校教諭・鏑木勢岐を担当者として塔

周辺の発掘調査が実施され、同年、上田三平が瓦散布地の試掘を行っている。

 

 

 昭和36年(1961)、高村誠孝によって、金堂推定地西側水路より銀製和同開珎

が検出され、廃寺全容解明の気運が高まった。

 

 昭和38年(1963)、石川考古研究会による試掘測量の実施、昭和40~41年

(1965~1966)には奈良国立文化財研究所技官を担当者とした末松廃寺調査団

が結成され、伽藍の確認を目的とした発掘調査が実施されている。

 

 この調査で、塔を東に置き、金堂を西に置く法起寺式伽藍配置であることが明らかと

なった。7世紀後半に各地で造営された寺院は、官営寺院の伽藍配置に規範を求めるこ

とが多く、大和の法起寺や川原寺など大寺の影響を色濃く受けていると推測される。ま

た調査から、8世紀後半には衰退し、1世紀の空白期間を経て9世紀後半には掘立柱

物を堂宇とした再建末松廃寺が営まれるも、創建時とは規模を異とした仏堂的施設であ

ったことも明らかになった。

 

 創建時の金堂規模は東西19.8m、南北18.4m。塔の一辺の長さは10.8m。出

土遺物から創建年代は白鳳時代の660~670年頃と推定され、北陸最古級の寺院と

推定された。

 

 

 造営主体は郡領層を中心とした在地豪族と推定され、候補として古墳時代以来北加賀

を本拠とした道君が考えられていたが、近年では出土瓦が能美市湯屋窯跡で焼成され

運ばれたものであること、加南・能美地域産の須恵器が多く出土していること、青戸室

産とされた塔心礎が手取川の転石を加工した安山岩である可能性が高いこと、周辺の集

落遺跡に近江・丹波からの影響が見られることなど、南加賀の勢力である財部氏などの

関係が指摘されている。

 

 調査終了後の昭和43年(1968)から史跡指定地の公有化や史跡公園としての整

備、遺物収蔵庫建設が行われ、平成26年(2014)からは史跡公園再整備に伴う発

掘調査が継続して実施されている。

 

 

 さて、「末松廃寺」も今後の文化財保護と活用を考える一例になるものである。敷地

の公有化、史跡公園の推進と保護面では申し分ないものであり、活用が課題となってく

る。

 

 観光活用を望む声も近年高まりつつあるが、「末松廃寺」に関しては生涯学習の場と

しての活用が最も適切な手法であろう。野々市市は発掘調査された遺跡に案内板を積極

的に設置するなど生涯学習に対する優れた施策が行われており、今後どのような活用が

行われるか注視していきたい。

 

 (参考資料)

   現地案内板