日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

角田城跡(宮城県角田市)

 

  【 角田城跡 】    評価 ★

 

   別  名:    臥牛館 金鶏館 角田要害

   所  在  地:              角田市牛舘1

   築城年代: 永禄年間(1558~1570)

   築  城  者:              田手宗光

   区  分:                平山城

   現  状:        角田中学校、角田高校

 

 

 永禄年間(1558~1570)、伊達氏家臣の田手宗光によって築かれたとされ

る。田手氏は陸奥國伊達崎(福島県伊達郡桑折町)城主・伊達氏一族で伊達朝宗の六男

実綱を祖とし、はじめ伊達崎氏を称し、のちに田手氏を称した氏族である。

 

 永禄9年(1566)、隣接した丸森・金山・小斎地域が相馬氏に侵攻されると、田

手宗光は伊達氏を離反し、相馬氏に従った。

 

 天正4年(1576)以降は伊達・相馬の争いは激しくなるが、伊達輝宗によって奪

還されると、父である宗光に従わず伊達氏に臣従していた田手宗時が城主となる。しか

し、天正10年(1582)、宗時が相馬氏との争いで討死すると、天正19年(15

91)、二本松城より一門の伊達成実が城主として入城。

 

 文禄4年(1595)、成実は突如伊達家を出奔💦伊達家当主であった伊達政宗は屋

代勘解由兵衛景頼に城の接収を命じたのだが・・・成実家臣・羽田右馬助実景らはこれ

に抵抗。実景ら三十余名が討死している。

 

 その後しばらく城主不在の状況は続いたが、慶長3年(1598)、政宗の叔父・石

川昭光が1万石で入封。元和の一国一城令で廃城になるべきところを要害と称すことで

石川氏の居城として存続(伊達氏は領内に二十一要害を保有)、明治維新まで石川氏が

在住している。

 

 明治元年(1868)、戊辰戦争で朝敵となった盛岡藩南部氏が白石13万石で減転

封されると、角田要害は南部氏によって管理されることとなる。

 

 明治4年(1872)、廃藩置県で仙台県に編入されるまでは角田県庁舎として使用

され、間もなく廃城となった。

 

 

 城址碑・案内板は角田高等学校敷地内にあるので、昨今では注意が必要な城郭の1つ

である。遺構が残されていないか?などと安易に校内をうろつくと大変なことが起こる

可能性が高い💦

 

 そこら辺を御留意いただき、城巡りを楽しんでいただきたいと思います(^^♪

 

 (参考資料)

   現地案内板