【 村田館跡 】 評価 ★★
別 名: 村田城 村田要害
所 在 地: 柴田郡村田町村田字追
築城年代: 嘉吉年間(1441~1444)
築 城 者: 村田九郎業朝
区 分: 平山城
現 状: 村田城址公園
嘉吉年間(1441~1444)、下野國(現在の栃木県)小山氏庶流で常陸國(現
在の茨城県)真壁郡村田庄(現在の明野町)からこの地に移り住んだ小山九郎業朝が村
田姓を名乗り、館を構えたとされる。
その後村田氏は代々伊達氏家臣として仕え、天文7年(1538)、村田紀伊守近重
は柴田郡六ヶ村のほか合計134貫542文の所領が与えられています。
しかし、近重には嫡子がおらず💦伊達稙宗の九男・宗稙を養子に迎え、宗稙は村田万
好斎と名乗っている。
天正19年(1591)、伊達政宗の長男・兵五郎(後の伊予國宇和島藩主・伊達秀
宗)はこの地で生まれている。同年伊達政宗が岩出山に転封となると、村田氏もこれに
従い桃生郡長井に転封となった。
慶長8年(1603)、伊達氏一門・石川昭光の隠居所として館が与えられ、慶長1
5年(1610)まで居所としている。
慶長18年(1613)、伊達政宗の七男・伊達宗高が若干7歳で柴田・刈田郡3万
石で入封されるが・・・、寛永3年(1626)、天然痘のため20歳で没した💦💦
その後、奥山大学・田村右京・大松沢和泉実泰と館主が変わるが、貞享元年(168
4)、栗原郡一追の芝多常春が村田に入封されると、芝多氏が184年に亘って村田を
統治している。
慶応2年(1866)、芝多常質は加美郡谷地森に転封となり、交替に谷地森領主・
片平大丞教敬が村田に入封するが、慶応4年(1868)、明治維新によって廃城とな
っています。
東北道村田ICからほど近い道の駅「むらた」から歩いて散策できる平山城で、曲
村田町は「蔵の街」としても売り出し中の街であり、見ごたえある蔵が街中にあるの
で、少なくとも半日は滞在してもらいたい街である。
(参考資料)
現地案内板