【 蒼海城跡 】 評価 ★
別 名:
築城年代: 永享元年(1429)
築 城 者: 長尾景行
区 分: 平 城
現 状: 御霊神社・宅地
染谷川とその支流である牛池川の間に位置する総社長尾氏の本拠である。
もとは上野国府が構えられていたと推測される地であり、現在も前橋市教育委員会に
よる発掘調査が継続されている。
永享元年(1429)、長尾景行によって築かれたのであるが、その子・忠房の代に
は早くも石倉に新たに城を築き、本拠を移している。諸記には水に不便なためと記され
ているが、旧地形(上野国府と思われる)に拘束された不合理な城であったことが最大
の理由と考えられている。
しかし、石倉城(古城であり、現在に伝わる石倉城ではないと推測される)は利根川
の氾濫によって崩壊してしまったことから、再び蒼海に居を移すこととなる。
文明5年(1473)、総社長尾景信が没すると、関東管領山内上杉顕定は長尾忠景
(景信の弟)に山内上杉家宰職を継がせたことで、文明8年(1476)、長尾景春
(景信の子)の反逆を招くこととなった。
戦国時代に入ると、総社長尾氏の家運は衰えを見せ始め、大永4年(1524)頃、
上野守護代であった長尾顕方は勃興してきた後北条氏綱に通じてしまう。そのため、顕
方の跡を継いだ顕景は、箕輪城主・長野信業と厩橋城主・長野方業に挟撃され、越後の
長尾為景に救援を求めたが果たせず、長野氏に服属することとなった。
その後、永禄9年(1566)、上州に侵攻した武田信玄によって蒼海城は攻略され
ている。
天正18年(1590)、関東入封した徳川家康は、諏訪頼忠を蒼海に封ずるが、頼
忠は蒼海城の北東部に新たに八日市場城を築いている。この地で嫡子・因幡守頼永は生
まれ、慶長6年(1601)、念願叶い諏訪氏の故地である信濃高島に移封されること
となる。
諏訪氏に代わり秋元長朝が入封するも、植野に新たに城を築き居城としたため、蒼海
城は廃城となっている。
( 総社神社にある「蒼海城跡地図」 )
前述したが、現在前橋市教育委員会が元総社地区の発掘調査を継続実施しており、そ
の際、蒼海城跡の遺構も検出されています。
(参考資料)
日本城郭体系 4 茨城・栃木・群馬 新人物往来社