日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

重要伝統的建造物群保存地区 海野宿(長野県東御市)

 

  【 重要伝統的建造物群保存地区 海野宿 】

 

           所在地: 東御市本海野

 

 

 もともとこの地は海野郷・海野荘とよばれ、東信濃の豪族である滋野氏やその嫡流

ある海野氏の本領地であり集落が形成されていた。

 

 治承4年(1180)、木曾義仲が平家打倒の挙兵をした地、天文10年(154

1)、武田信虎村上義清諏訪頼重連合軍と海野棟綱・根津元直ら滋野三家と真田氏

との間で行われた海野平の戦いの地、真田幸隆らの出生地ともいわれている。

 

 天正11年(1583)、真田昌幸上田城下町形成にあたって海野から上田に住民

を呼び寄せたことで集落は縮小している。

 

 寛永2年(1625)、北国街道の宿場町として江戸幕府によって整備されたが、当

初は田中宿と合宿であった。しかし寛保2年(1742)、「戌の満水」と呼ばれる千

曲川の大氾濫によって田中宿が壊滅的被害を受けたことから本宿となった。

 

 

 街道のほぼ中央に用水堰が流れ、宿場の東西には枡形が置かれ約6町(約650m)

にわたり宿場町が整備された。佐渡金山から産出した金の輸送、善光寺詣の参拝客や北

陸諸藩の大名の参勤交代などで非常な賑わいであったという。

 

 明治時代には信越本線の駅設置が検討されていたが中止されるも、鉄道網の発展によ

って宿場町の利用客は減少💦

 

 蚕の病気が出にくい気候環境と、矢島行康ら養蚕先駆者の指導もあり、養蚕業・蚕種

業を主に行うことで養蚕の町として栄えた。

 

   ( うだつが上がらないの「うだつ」は防火対策としても有効であった )

 

 宿場時代の建物の多くは旅籠屋造で、出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が

よく残された町並みである。

 

 平成元年(1989)以降、海野宿内の道路環境整備事業が継続して実施されてお

り、中央水路の改修、車道・歩道の整備、電柱撤去といった景観整備が行われ、東御市

の観光地として知られるようになった。

 

tomikan.jp

 

 かつて「海野宿」を訪れた際には言葉は悪いが・・・「町並みは残されているが活気

がない(お店もなく💦観光地としては厳しい💦)」ものであった。しかし十数年ぶり

に訪れると、飲食店や古書店もあり観光地として整備されつつあった。

 

 小諸・上田という一大観光地に挟まれた東御市ではあるが、是非足を延ばしておとず

れてもらいたい場所であるm(__)m

 

   ( 宿場を歩いてみると、かつての面影を今に伝えるものが・・・ )

 

 (参考資料)

   現地配付パンフレット

   現地案内板