【 小川城跡 】 評価 ★★★
別 名:
築城年代: 応安元年(1368)
築 城 者: 小川景秋
区 分: 崖端城
現 状: 山林・耕地
( 城址碑 )
応安元年(1368)、荘田城主・沼田景久が次男・景秋に小川の地七百貫(約3,500石余)を分与し、景秋は小川氏を名乗り築いたとされる。
一説では明応元年(1492)の築城ともされるが、そうなると素行不良で追放された二代・景祐ではなく、三代・秀泰(岡林斎)による築城ということになる。秀泰は沼田七騎の一人として名を馳せた人物として知られる。
永正2年(1505)、小川景奥の時、戦火により(この時期、主家である沼田氏は同族の発智氏と争っており、その影響か?)小川城は焼失。景奥の嫡嗣も幼くして焼死したという。
その後再興されるも、大永4年(1524)、景奥も落命してしまい、小川氏は断絶する💦
小川城は配下であった北能登守と南将監が守備するも互いに不和となり、この時期に播磨の名族である赤松則村の末裔と称する赤松捨五郎祐正が上方より小川城に寄寓し、城内に留まっているうちに信頼を得て、小川可遊斎と名乗り小川氏の名跡を継ぐこととなった。
( 曲輪Ⅰ、曲輪Ⅱの間には見事な空堀が残されている )
永禄3年(1560)、長尾景虎の越山に際して、沼田氏一族はその幕下に加わり、勢力を上州まで伸ばしつつあった後北条氏に対抗した。
しかし、景虎の勢力が後退し武田信玄の勢力が拡大した天正7年(1579)頃までには可遊斎は武田配下の真田昌幸の麾下となり、明徳寺城攻略にも加わっている。
天正8年(1580)、沼田領支配に野心を持つ後北条氏政・氏直父子は、配下の沼田城代・藤田信吉に3,000の兵を以て小川城攻略にかかった。
小川可遊斎は200余の兵で迎え撃ち、菩提木の戦いで後北条勢を撃退して大いに名を高めるも、再度大軍を以て小川城に後北条勢が攻めるとの情報に恐れをなし、降伏を願い出るも許されなかったことから、密かに越後に落ち延び、小川城は落城🔥したという。
可遊斎は奸智に長けた人物であったようで、浪人の立場から小川城主となるが・・・、どうも城主となる時期も曖昧であり、播磨から何故上野国に来たのか💦真田昌幸に従ったにもかかわらず、越後に落ち延びたという点にも疑問が残される💦
天正8年時点で可遊斎は何歳だったのか?かなりの高齢だったのかぁ💦越後に落ち延びた後のことも不明ってのもねぇ💦
( 空堀 )
天正18年(1590)、後北条氏滅亡、真田昌幸の領有するところとなり、城代には小川氏重臣・北能登守(この人物も一体何歳💦?)が配され、天正20年(1592)頃まで在城し、その後廃されている。
※ 寛永16年(1639)には真田伊賀守が5,000石で小川城二の丸に陣屋を構
えるが、こちらは「小川陣屋跡」をご参照下さい。 https://nihonshiseki.hatenablog.com/entry/2020/11/29/111251
JR上越新幹線・上毛高原駅からほど近い崖端に「小川城跡」はあります。地元保存会の方々の御尽力によって遺構は保存されており、見学しやすい城跡です。
遺構も曲輪・土塁・空堀と見事であり、しかも上毛高原駅の観光案内所では今流行りの御城印も販売(¥300)されています。
後北条氏征伐の契機となった「名胡桃城跡」も近いのでセットで見学すると、「小川城跡」の存在意義がわかりますよ(^^♪
なかなか観光で訪れるということはない城跡ですが、周囲には「矢瀬遺跡」などもあり観光考古学に取り上げてみたい城跡でもあります。
(参考資料)
現地案内板