日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

郷民擁護碑・丸山之碑(山梨県甲府市)

 

  【 郷民擁護碑・丸山之碑 】

 

   所在地: 甲府市下曽根町  甲斐風土記の丘・曾根丘陵公園内

 

        ( 左から史跡指定碑、丸山之碑、郷民擁護碑 )

 

 「郷民擁護碑」 高さ109㎝(最長) 幅55㎝(上)73㎝(中)55㎝(下)

         厚さ34㎝(最厚)18㎝(最薄)

 

 「丸山之碑」  高さ181㎝(最長) 幅96㎝(上)109㎝(中)70㎝(下)

              厚さ25㎝(最厚)16㎝(最薄)

 

 

 天保11年(1840)、市川陣屋代官・小林藤之助は丸山塚古墳を特別な場所と感

じ、土地所有者であった浄照寺住職に相談したところ、賛同を得て古墳を地域で大切に

しようと石碑を建立するとともに、古墳を村の所有物とした。

 

 「郷民擁護碑」には、「郷民擁護神霊の満たします所なり。うやまへば則ち福を降し

をかせばすなわち祟りあらん。天保十一年八月 立石」と刻まれています。

 

 地域の人々に大切にされた丸山塚古墳も明治になると個人所有の土地となった。明治

40年(1907)、土地所有者であった松野伝四郎が墳頂部を桑畑にしようと耕した

ところ、竪穴式石室が発見され、石室内から青銅鏡や鉄刀、鉄剣が出土した。

 

 出土遺物は、東京帝国大学人類学教室に在籍していた考古学者・坪井正五郎に届けら

れ、丸山塚古墳が古墳時代の墓であることが明らかとなった。

 

 松野は丸山塚古墳が重要な古墳であり、地域の敬うべき場所と考え、明治41年(1

908)、坪井に石碑の文章起草を依頼。明治42年(1909)、「丸山之碑」を建

立した。

 

 「丸山之碑」には、「甲斐國東八代郡下曽根村に塚あり、里俗丸山と呼ぶのみにして

由来詳ならず。天保年間浄照寺と称する寺院の所属たりし頃時の代官某此塚を以て郷民

擁護神霊の存する所となし碑を建てたる事あるも唯里人に尊敬すべき地たるを告げしに

過ぎず、明治の初年現在の地主松野伝四郎氏の有に帰して以来開墾を継続せし結果、上

部中央深さ一尺五寸の所に於て埋もれたる石あるを認め、発掘の末、終に幅三尺、高三

尺、長二丈一尺の石槨を発見し、其の内部より漢鏡一面、刀剣数個を得るに至れり。此

に於て由来詳かならざりし丸山は、千余年前貴人の為に築きたる墳墓なる事明白となれ

り。是実に明治四十年三月四日の事に属す。今や漢鏡は学術上の参考品として永く東京

帝国大学に保管される事となれり。地主松野氏之を得たる地に碑を建て、此事実を後に

伝へ、併せて人をして此地を敬すべき所以て知らしめんとす。誠に当た得たる挙と云ふ

べし。即ち需めに応じ此の記を作り且つ書す。

          明治四十一年九月

           東京帝国大学理科大学教授理学博士 坪井正五郎」と刻まれ、事の経緯が詳細に記されている。

 

 

 「郷民擁護碑」・「丸山之碑」は丸山塚古墳墳丘上から移築され保存されています。

一見して何気ない石碑のように感じます(案内板がなければ気にすることなどないかも

しれません💦)が、刻まれた内容は【文化財保護】の先駆け的内容!!

 

 文化財保護史上でも貴重な石碑といって良いでしょう(^^♪

 

 甲斐風土記の丘・曾根丘陵公園内には多くの貴重な古墳・遺跡がありますので、「郷

民擁護碑」・「丸山之碑」も見逃さないよう踏査して下さいませm(__)m

 

 (参考資料)

   現地案内板