【 甲冑堂 】
拝観料: ¥300
創建年代は明らかではないが、源九郎判官義経に仕えた大島城主・佐藤庄司基治の息
子である継信・忠信の妻(楓・初音)の木像を祀るために建立された。一説には文亀年
間(1501~1504)創建とされる。
田村神社創建の由来を考えると、創建当初は坂上田村麻呂・鈴鹿神女の像が祀られて
いた可能性も高い。
甲冑堂には、次のような故事が残されている。
継信、忠信兄弟は、義経に従い平家追討に数々の武功を挙げたが、兄・継信は、寿
永3年(1184)、屋島の戦いにおいて義経の身代わりとなり、平能登守教経の放
った矢を受けて壮絶な戦死を遂げ、弟・忠信は文治2年(1186)、頼朝と不和と
なった義経を落ち延びさせるため、自ら義経と名乗った後に落ち延びた京都・堀川で
200名の追手に襲われ自害した。
文治3年(1187)、義経一行は奥州に辿り着くが、継信・忠信の死を知った母
親の悲しみは大きく、二人の妻である楓・初音は形見の甲冑を着て、母親の前に立ち
「継信・忠信、只今凱旋致しました」と述べたという。
この孝心を後世に伝えるために建立されたのが「甲冑堂」と伝わっている。
元禄2年(1689)、松尾芭蕉に随行した河合曾良の『曾良旅日記』には、「馬牛
沼の下、鎧越しという岩あり、この岩より下りて二町程右の方に継信・忠信の妻の御影
堂あり」と記し、元禄9年(1696)、同じく芭蕉門下の天野桃隣は『陸奥ちどり』
の中で、「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」と詠んでおり、江戸時代には佐藤兄弟の妻の
像という説が定着していたことがわかる。
明治8年(1875)、甲冑堂は田村神社の放火🔥によって焼失💦💦するが・・・
昭和初期に故事が国定教科書に掲載されると、再建の気運が高まった。
昭和8年(1933)、郷土史家の阿刀田令造、小倉博は、現地調査を手掛ける一方
で、田村神社宮司・中川暢喬や斎川小学校校長・星野達郎といった地元住民の協力を得
て、昭和9年(1934)、甲冑堂再建基金の募集を開始。全国各地から募金が寄せら
れ、中には教科書で故事を知った小学生が貯めていたお金を募金したという。
昭和14年(1939)11月、元東北大学教授・小倉強が堂の設計、木造彫刻は小
室進、木造彩色と壁画を岡田崋郷が担当して、再建落成された。
「甲冑堂」は、東日本大震災復興支援と銘打った、日本史跡研究会 第2回研修(平成
23年度)の地として感慨深い場所である。当時の研修参加メンバーは紆余曲折あり💦
今では音信不通となってしまったが、それでも当時の思いを思い起こさせてくれた。
白石市といえば・・・片倉氏の居城であった「白石城」を思い浮かべる方も多いであ
ろう。しかし、「夏草や 兵どもが 夢の跡」を思い起こさせる「甲冑堂」にも足を延ば
してみては如何でしょうか(^^♪
(参考資料)
現地配付パンフレット
現地案内板