【 大戸関所跡 】 評価 ★★
別 名:
所 在 地: 吾妻郡東吾妻町大戸
築城年代: 寛永8年(1631)
築 城 者: 江戸幕府
区 分: 関 所
現 状: 復元関所
元和9年(1623)、徳川秀忠上洛の際(三代将軍・家光を伴っての上洛時のこと
と思われる)、中山道の脇往還である信州街道の要衝である大戸を、碓氷関所の裏固め
の意味合いもあり、守備させたことに始まる。一説では、元和元年(1615)に安中
藩家臣(井伊直政長男である直勝家臣ということになる)に固めさせたともされる。
寛永7年(1630)、幕府目付による関所見立巡検があり、寛永8年(163
1)、正式に関所が設置され、幕府代官の管理下に置かれた。
関所役人として大戸村・加部安右衛門、一場五郎左衛門、本宿村・堀口利右衛門、荻
生村・田中四郎左衛門が任命され、また関所付の村として大戸、荻生、本宿3ヶ村は関
所番人を出し警備にあたったり、関所破りの監視などの負担が義務づけられ、近隣11
ヶ村は関所普請村に充てられた。
大戸関所は信州街道(別名を信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも)の要衝であ
り、信州街道は草津温泉等への湯治客、善光寺参り、北信濃や北陸諸国の廻米・産物輸
送路として活気があり、江戸と信濃を結ぶ最短ルートとして重要な街道であった。
関所は通行手形によって人々の往来を厳重に取り締まり、関所破りは重罪であった。
門限は明け六つから暮れ六つ(午前6時から午後6時)と定められていました。
嘉永3年(1850)12月、侠客として知られる国定忠治は子分の仇を取るため、
手下30余名を率いて関所破りを行った罪によって、大戸宿で処刑されたことは有名な
話である。
明治元年(1868)9月、明治政府によって関所は廃止され、その役割を終えた。
復元された関所もあり、ほど近くには関守を務めた加部安左衛門宅も残されており、
大戸宿にはけっこう見どころは多い。にもかかわらず、多くの人々は通過してしまう地
である💦
見学にはさほど時間を要しない史跡であり、観光に特化した地ではないが是非足を止
めていただきたいものである。
(参考資料)
現地案内板