【 黛節子旧居の地 】
所在地: 杉並区荻窪3ー15
大正7年(1918)、日本民族舞踊界において確固たる地位を築き上げた黛節子は
東京に生まれる。
昭和21年(1946)、初代・花柳寿美の門を叩き、その後、藤間流に移り藤間流
家元である藤間勘斎(先々代松本幸四郎)に名取りを許され、藤間節子となる。
昭和24年(1949)、帝国劇場で初舞台を踏み、高村光太郎・志賀直哉・小宮豊
隆・小泉信三らの支援を得て、創作舞踊と民俗舞踊の研究に専念することとなる。
日本各地に伝わる伝承芸能、神事芸能の巫女舞を研究する一方、能を橋岡久太郎、地
唄舞を山村れん、舞楽を豊昇三、御冠船踊りを親泊興照に学んでいる。
昭和61年(1986)、日本民族舞踊の国際普及と、世界民族芸術交流促進を図る
ため、財団法人黛民族舞踊文化財団を設立。
平成7年(1995)、享年77で逝去した黛節子。77年の生涯のどこで荻窪に居
宅を構えていたのかは定かではない。しかしながら、財団が生誕100年を記念して
「黛節子旧居の地」の標柱を建立していることから、住んでいたのだろう。
なかなか馴染みのない人物の旧居の標柱であるが、御紹介してみることに。日本舞踊
の世界では確固たる地位を築いた人物であり、今後なんらかの場面でその名を聞くこと
もあるかもしれませんね。