日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧宅跡(東京都杉並区)

 

  【 与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧宅跡 】

 

   所在地: 杉並区南荻窪4-3-22 与謝野公園

 

 

 大正12年(1923)、関東大震災を機に、麴町区富士見町(現在の千代田区富士

見)から郊外に移ることにした与謝野寛・晶子夫妻は大正13年(1924)、この地

東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなくその一部に采花荘を建て、長男・

次男を住まわせました。

 

 昭和2年(1927)、与謝野寛・晶子夫妻は、晶子自ら図面を書き、西村伊作設計

の遥青書屋と名付けたクリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色の二階建ての洋

館に引っ越してきました。

 

 一階は広々とした廊下、応接間、書斎、客間用ベランダと夫妻の部屋、二階には日本

座敷二間、階上階下には子供たちの好みの和風洋風の部屋があったようです。

 

 

 昭和4年(1929)、晶子50歳の祝いにと弟子たちから六畳・三畳二間の一棟が

贈られ、冬柏亭と名付けられ書斎や茶室として使用されています。この冬柏亭は京都・

鞍馬寺に移築され唯一現存しています。

 

 夫妻はこの地で歌会を催したり、『日本古典全集』の編纂、歌誌『冬柏』の編纂を行

い、各地に旅行し歌を詠み講演をしています。

 

 昭和10年(1935)3月26日、旅先の風邪から肺炎を発症し入院していた寛

は、晶子や家族、多くの弟子に看取られながら62歳の生涯を閉じています。

 

 昭和14年(1939)、寛亡き後の晶子は、十一人の子女の成長を見守りつつ、念

願であった『新々訳 源氏物語』を完成させ、昭和17年(1942)5月29日、脳溢

血発症後療養していましたが、余病を併発。この地で64歳の生涯を閉じました。

 

 

 与謝野公園となってはいますが・・・寛・晶子の過ごした邸宅は既になく💦💦案内

板が建つのみ。

 

 しかしながら、日本文学史には欠かせない歌人である与謝野鉄幹・晶子の旧跡として

散策してみては如何でしょうか(^^♪

 

 (参考資料)

   現地案内板