日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

地域の史跡を拾い上げろ!

 

 昨夜も『卒業論文草稿』完成に向けて日付変更線を超えて頑張りました(^^♪

 

 今日は一日オフだったので、久しぶり?にゆっくり就寝して・・・、さて起床したら

ふと「そうだぁ、あそこを踏査しておこう」と午前中に出陣🏇

 

 まぁ、出陣というよりは領内巡検といった感が💦

 

 🔵  中林遺跡        高崎市吉井町馬庭

 

   古墳や城跡などの複合遺跡で、これまで未踏査であった。

   高崎市指定史跡だったのだが・・・。土塁・堀跡が確認できる。

 

 🔵 田篠塚原古墳群     富岡市田篠

 

   田篠団地内に数基の円墳が残存し、「田篠しの塚古墳」は移築復元されている。

 

 他にも気になる(立ち寄れる)物件はあったのですが・・・、まぁいいかぁ。写真の

現像もしたかったので。

 

 少しずつでも踏査を継続して、地域の史跡を拾い上げなきゃなぁ(^^♪

 

 踏査というものもようやく分かってきた今日この頃です。

 

 でも、野帳に踏査メモやスケッチするなど本格的な史跡踏査のやり方も少しずつ学ん

で行かなきゃって考えています(^^♪       

木部山5号墳(埼玉県児玉郡美里町)

 

  【 木部山5号墳 】

 

           所在地: 児玉郡美里町甘粕字西山346

 

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 直径20m、墳丘高2.5mの円墳。

 

 横穴式石室は崩れていて詳細は不明であるが、周溝は比較的良好に残されている。

 

 古墳時代後期に築造されたと案内板に記載されている。

 

 

 う~ん。本当に詳細なデータ無いのは更新時に困るわぁ💦

 

 「木部山古墳群」って遺跡の森建設時に発掘調査とかされてないのかなぁ?古墳屋じ

ゃないから図書館等で調べてはいないけれどぉ💦

 

 詳細が分かりましたら、加筆したいと思いますm(__)m

 

 (参考資料)

   現地案内板

日本史跡研究会・・・、なんだかんだ言って10周年です!

 

 今日は4月1日。そうエイプリルフール、じゃなくて新年度のスタートです。

 

 なんだかんだ言って、日本史跡研究会も10年目突入です!!

 

 昨年度は新型コロナウイルス蔓延もあり、思うような活動は出来ず活動自粛した1年

となってしまいました。

 

 本来記念すべき10周年記念の年度でもあり、昨年の分を取り戻すべく活発な活動を

したいところ。

 

 がっ、今のところ再び新型コロナウイルス再拡大の傾向が見られますので自粛は続き

ます(>_<) 

 

 ワクチン接種等の対策が広く行われ、安心して研修が開催される日が早く来て欲しい

というのが本音です💦

 

 記念すべき10年目ですが、この状況下ですから気負うことなく状況を注視して活動

再開時期を探りたいと思います!!

 

 改めて、昨年活動自粛していたとはいえ、2021年度は日本史跡研究会の記念すべ

き10周年で~す(^^♪ 

関流算術の碑(埼玉県児玉郡美里町)

 

  【 関流算術の碑 】

 

   所在地: 児玉郡美里町木部

 

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 小林喜左衛門良匡は、関流算術の大家であり、幕末における激動混乱のなか、青年た

ちに算術を通して善導し、質実剛健で真に世の中の為になる人物の育成に一生を捧げた

人物である。

 

 良匡は寛政元年(1789)、武州那賀郡木部村(現在の美里町木部)に生まれ、幼

少より聡明で、家業のかたわら学問にも精を出し、なかでも算術に興味を持ち、独学で

研究を積み、遂には関流算術の奥義を極めています。

 

 当初は近隣の青年を自宅に集めて算術を教えていましたが、良匡の人柄を慕って教え

を請うものが次第に増加。その後、遠隔地の青年のために泊りがけの出張教授も行って

います。

 

 「関流算術の碑」は明治5年(1872)の春、門人有志によって良匡への謝恩の意

から建立されている。

 

 碑の表面には、良匡の書いた建碑のいわれと和歌が刻まれ、裏面には門人129人の

名が記されている。門人は児玉、秩父、男衾及び幡羅など広範囲に及び、良匡がいかに

優れた指導者であったかが伺える。

 

    和歌は 「むさしのや おくある道は はかるとも 

                かぞえつくさじ くさの之のつゆ」 

 

 武蔵野の広野といえども算術をもってすれば計算することができるけれども、人生と

いうものは、儚いもので、あたかも草の葉の先端に露が溜まって、きらきらと無数に光

っているが、水玉が数えきれないうちにぽろろんと落ちて、乾いて消えてしまうよう

に、人の生命もまた、算術という学問もまた、決して終りというものではない。

 

 「関流算術の碑」は指定史跡ではないのだが、美里町によって立派な案内板が設置さ

れている。こうした未指定の史跡を拾い上げ、俯瞰的に地域のストーリー性を構築する

ことが観光考古学の視点には重要である。

 

 その意味で美里町の取り組みは見習うべきであろう。

 

 (参考資料)

   美里の文化財         美里町教育委員会

   現地案内板    

天王塚古墳(群馬県藤岡市)

 

  【 天王塚古墳 】

 

   所在地: 藤岡市白石字洞2129

 

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 上毛古墳総攬では「平井村440号古墳」と記載されている円墳。

 

 昭和27年(1952)10月、群馬大学・尾崎喜左雄らによって学術研究のための

実測調査は行われているが、発掘調査自体は行われておらず埋葬施設等詳細不明の古墳

である。

 

 実測調査の際、鳥形形象埴輪を採集したようで、築造年代は6世紀末から7世紀初頭

に築造されたと推測されている。

 

 墳丘上には天王社が鎮座していることが名前の由来であろう。

 

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 以前から古墳だよねぇと気になっていたので・・・、白石古墳群を形成する一基とい

う認識に間違いはない(はず💦)と思う(>_<)

 

 墳丘の大きさも実測調査されているのにぃ💦資料がな~い(>_<) 正確を期すために

誤った情報は載せずにおきます。

 

 今後、詳細が分かり次第加筆したいと思いますm(__)m

 

 (参考資料)

   藤岡市史 資料編 原始・古代・中世

観光考古学学会WEBセミナー「地域の文化遺産を活かした観光」視聴!

 

 今月末の31日まで視聴可能な観光考古学学会WEBセミナー「地域の文化遺産を活

かした観光」。残すところ数日となったので、しっかり視聴しました。

 

 観光考古学会会員限定のWEBセミナーですが、卒業論文草稿だけではなく、今後の

研究に非常に役立つ内容でした。しっかりメモを取り、まとめておくことで論文にも活

用出来ます!!

 

 何故いま文化財の活用が検討されるに至ったのか、地域の文化遺産を活かした地域振

興計画の事例など、セミナー視聴して思ったことは、これから観光考古学の分野を研究

し続けて「卒業論文」以降もしっかり論文を執筆したいという思い。

 

 また、「卒業論文草稿」が余りにも陳腐な感じだなぁ💦とも思いました(+_+)

 

 しかし「卒業論文」はこれからの研究の基幹として捉え、今後はそれを深めて行けば

いいんですよね。焦りを感じてしまいますが、今は基本的なことを理解して土台をしっ

かりと固める時期ですわ。

 

 土台をしっかりと固めた上で、柱である研究課題やそれを深めた部屋の構築をして、

立派な家を建てるべく、先ずは整地と捉えられる「卒業論文草稿」という課題に向き合

います(^^♪

 

 いやぁ、学びの世界って本当に奥深いっす💦

西間野猿落しの磨崖碑(群馬県高崎市)

 

  【 西間野猿落しの磨崖碑 】

 

   所在地: 高崎市上里見町字西間野

 

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 信州へと通じる草津街道のこの辺りは、猿落し、あるいは暗がりなどと呼ばれた交通

の要衝であり、人馬の通行は極めて難儀であった。

 

 文化6年(1809)、官許を得た篤志家が旧道の上方に平坦な新道を開削した。こ

の新道開通によって交通は便利となり、室田宿を経由しないで三ノ倉宿へ行く人が増加

し、草津への湯治客も含めて神山宿に宿泊するのが常となり、神山宿繁栄の基礎となっ

ている。

 

 碑は本来崖の一部を削り刻まれたものであるが、平成3年(1991)、県道改修工

事に伴い、岩盤から切り取って現在の場所に移設された。

 

 なお碑文に刻まれた文字は・・・、

 

    神山駅西在路曰猿落     神山駅西に路あり 猿落峯と曰う

    峯其嶮可知也多人痛     其の嶮知るべき也 多くの人痛み

    牛馬屠矣近有人請      牛馬屠む 近くに人ありて

    官新開一路比旧路則     官に請うて新に一路を開く 旧路に

    稍平坦今也記歳月并     比すれば則ちようやく今平坦なり 歳月並びに

    録其出費村里云       其の出費を録して村里に云う

    文化六年己巳冬十月     文化六年己巳冬十月

 

 

 こうした民俗資料も貴重な地域の歴史を伝えるものである。「西間野猿落しの磨崖

碑」は道路沿いにあるのだが、人々はかつて難儀な道であったとは露知らず車で行き交

っている。

 

 SNSなどで史跡の存在を知ってもらい、これからも保存していきたい石造物である。

 

 (参考資料)

   榛名町文化財           榛名町教育委員会

   現地案内板