日本史跡研究会 日々の徒然~埋もれた歴史を訪ねて~

日本各地の埋もれた史跡などをご紹介致します。また、日本史跡研究会の活動についてもご紹介しております。

群馬県立歴史博物館 講演会「上野三碑とその時代 ー史料からみた古代上野国と律令国家-」拝聴してきました(^^♪

 

 今月27日(日)まで、群馬県立歴史博物館において第107回企画展『上野三碑

時代-7・8世紀の都と東国-』が開催されております!

 

nihonshiseki.hatenablog.com

 

 その関連事業第6弾として、本日奈良大学教授であり、通信教育部長である渡辺晃宏

氏を講師に迎え、講演会「上野三碑とその時代-史料からみた古代上野国律令国家」

が開催されました!

 

 奈良大学通信教育部生として是が非でも本講演は聴講しなければなりません!!

上野国群馬県)に関係した木簡を通じて、上野三碑の時代を考察した90分の講演

は、まるでスクーリング講義の気分でした(^^♪

 

 教授の講演内容は盛りだくさんで90分では足りないほどでした。「もっと聞きたか

った」と講演後、聴講者がお話されているのを耳にしました。

 

 通信教育部長としての渡邊教授とゆっくりお話したかったのですが・・・コロナ禍で

あり、お忙しい御身💦それは今後、学友会員となってからかな(+_+)

 

 奈良大学教授の講演ということで非常に有意義な1日でした(^^♪

次なる決断は? ~来年の事業展開のために!~

 

 さて、いまだ先に受注したD社の商用車(ハイゼットカーゴ)が納車されていません

が・・・、来年の事業展開のために次なる決断を近々することになりそうです。

 

 それは・・・駐車場に設置予定の「物置」。

 

 設置場所は既に決めており、横5m×縦2.5~3mほどの物置をピックアップ。

 

 物置にも各種メーカーありますねぇ。有名なI社、T社、そしてY社。

 

 展示場に行ってイメージを膨らませ、大体こんな物置・・・と考えていたのですが💦

最終候補としてノミネートされたのは、予想外のY社「〇ド蔵」。

 

 予定ではI社かT社の物置を検討していたのですが、品質等、長年使って行くことを

考えると良いものをと家族の話し合いでね💦

 

 大きさも横3m×縦2mくらいのもの。でっ、見積書を貰ってきましたが・・・な、

なんと60万ほどの金額!!

 

 「物置」も発注してから納期がかかるので、今日受注しようと思っていましたが見積

書に留めました💦💦

 

 さて、来年の事業展開のために必要な「物置」ではありますが、熟考して最終決断を

しなければぁ💦💦何より重要なのが、「物置」投資分をしっかり回収できるだけの仕

事をしなければぁ(+_+)

 

 はぁ(>_<) 悩みの種は多いっす💦💦💦

小暮の穴薬師(群馬県高崎市)

 

  【 小暮の穴薬師 】

 

   所在地: 高崎市吉井町小暮字仏崎裏856

 

 

 鏑川左岸に切り立った南向き急斜面の中腹に所在し、段丘の地質は凝灰岩(板鼻層)

が厚く堆積している。

 

 昭和52年(1977)12月、群馬県史編纂室による調査が実施され、ほぼ完全な

横穴墓3基のほか、崩落した痕跡が認められるもの5基が確認された。

 

 横穴墓の大きさはいずれも全長2.5mほどで、平面形態は基本的に隅丸台形。天井は

かまぼこなりを呈すドーム状で、奥壁は半円形である。1号墓、2号墓は削って造り出

された玄門が具備されている。

 

 

 1号墓、2号墓は既に開口しており副葬品は確認されなかったが、2号墓造り出し玄

門付近からは釘状鉄製品が16本束状になって出土している。

 

 遺物から横穴墓掘削時期は7世紀後半から8世紀初頭と推察されている。

 

 

 横穴中にはかつて石造薬師如来像があったことから、穴薬師と呼ばれている。

 

 現在、横穴内には柵があるために入ることは叶わないが、像種不明であるが石造が確

認できる。

 

 

 かつての民間信仰も垣間見える横穴墓であるが、今では訪れる人も疎らなのであろ

う。横穴墓に向かう階段途中には大きな蜘蛛の巣が💦💦💦

 

 それもそのはず(+_+) 路駐して訪れざるを得ないのだが・・・交通量はかなりある

上、路側帯もあまりない場所なのだ💦

 

 上信電鉄西山名駅で下車し、「山名古墳群」や「山上碑・山上古墳」と併せて見学

するのが良いかもしれません。また【上野三碑めぐりバス】を利用するのもおすすめで

ある!

 

 (参考資料)

   吉井町文化財ガイドブック     吉井町郷土資料館

   現地案内板

バタバタ・・・しております💦

 

 う~ん(+_+) この時間になってもまだバタバタ・・・・しております💦

 

 今日はこんなはずじゃなかったのにぃ(>_<) いったいどこでどう行動を間違えたの

か?

 

 仕事上の事務処理も済んでおらず💦書類が机のまわりに散乱💦💦💦

 

 ひとまずブログ更新が途絶えることだけは回避すべく、現状報告をば(+_+)

 

 書類をひとつひとつ精査して処理🖊処理🖊処理ぃ💦💦💦 今晩処理できるものに関

しては片付けてしまわなければぁ💦

 

 明日も朝からあれしてぇ、これしてぇと気持ちばかりが焦りまくり(>_<) 身体は一つ

なんだから、処理能力にも限界があるぞぉ!!

 

 ということで、本日はまともなブログ更新ではありませんが・・・何卒ご容赦くださ

いませぇm(__)m

高槻 富田の酒造り(大阪府高槻市)

 

 【 高槻 富田の酒造り 】

 

   所在地: 大阪府高槻市富田町

 

               (  「寿酒造」 )

 

 高槻市富田は、阿武山山系の石灰質を通って豊富な地下水脈から湧き出る清水と、良

質な酒米に恵まれた土地であった。酒造りに代表される商工業で栄え、17世紀には2

4軒の造り酒屋が軒を連ね、江戸にまで聞こえた銘酒の産地として隆盛を極めたが、現

在は「寿酒造」と「清鶴酒造」の2軒の造り酒屋が富田伝統の地酒を造り続けているの

みである。

 

 江戸時代初期、清水家(紅屋)初代・利重は、関ケ原の戦い大坂の陣で徳川方に協

力した功績で、特別な酒造り免許(由緒株)を受け徳川将軍家への献上物やお目見えも

許可され、富田の酒造業発展の中心となった。

 

 元禄14年(1701)刊行の『摂陽群談』には、「所々の市店に出せり、香味勝て

宜し」と記され、また芭蕉十哲の1人である宝井其角は「けさたんと のめやあやめの

とんたさけ」の句を詠んでいる。

 

 そんな富田の酒造りも、江戸時代中期以降は度重なる酒造制限に加え、池田・伊丹・

灘の酒造業に押され、江戸時代後期になると徐々に酒造業は衰退している。

 

 

 二日間の高槻踏査で最後に訪れたのが「富田の酒造会社」であった。祝日であったこ

ともあり、蔵元はお休み💦

 

 地酒🍶の試飲をしようとも思っていたが・・・残念(>_<) 機会があれば酒販店で富田

の酒を探してみようと思います。

 

 (参考資料)

   高槻の史跡         高槻市教育委員会

   現地案内板

令和4年度 第2回現地踏査『これからの文化財保護と活用を考える -高槻市踏査を例として-』 二日目 その5

 

 高槻踏査もいよいよ最終局面。阪急・高槻市駅から初阪急🚃で一駅移動。

 

 阪急・富田駅に到着したのであるが・・・、最終目的地は予約が必要な地。予約時間

は午後2時ということで、若干時間に余裕がある💦

 

 昼食を済ませたばかりではあるが、富田駅に程近い喫茶店☕🍰で小休止!!こんな

緩さが関西での研修の特徴ともいえる。

 

 小休止し、最終目的地に向かう一行。しかしながら、まだ時間はちょっと早い💦とい

うことで周辺を探索することに。

 

 

  🔵 三輪神社           高槻市富田町4-14-14

 

   ここに関しては先行してブログに更新済ということで、そちらをご覧ください。

 

nihonshiseki.hatenablog.com

 

 

  🔵 出世地蔵           高槻市富田町

 

   明治元年(1868)、神仏分離令によって三輪神社の外に出された地蔵で、昭

   和50年代に現在の場所に安置されたという。

 

 そうこうしているうちに予約した午後2時。ということで最終目的地に。

 

 

  🔵 普門寺         高槻市富田町4-10-10

 

   明徳年間に説厳によって創建されたと伝えられるが、一旦荒廃していたようであ

   る。

 

   永禄4年(1561)、三好長慶がかつての主君・細川晴元を幽閉し、普門寺の

   復興とあわせ周囲に堀や土塁を構えた城郭「普門寺城」とした。境内の一角には

   この地で崩じた晴元の墓と伝わる宝篋印塔が残る。

 

          ( 細川晴元の墓とされる宝篋印塔 )

 

   元和3年(1617)、龍渓が入山し、約40年間かけて方丈や諸堂を造営。

 

   明暦元年(1655)、明の高僧・隠元が招かれて6年間滞在している。

 

  普門寺のみどころの一つが、江戸時代初期に玉淵作と伝わる枯山水庭園である。

 

 

 普門寺拝観の際も、次第に強まる雨☔に悩まされてしまった(>_<) これもあってゆ

っくりと散策は叶わなかったが、改めて訪問したい古刹である。

 

 1時間弱滞在したのち、一行は帰途に就くのであるが・・・、富田町は酒造で知られ

た街。JR富田駅に向かう途中で、造り酒屋を発見!!

 

 

 雨に祟られ、限られた時間の中で忙しない高槻踏査であったが、文化財の保護と活用

を考える上で有効な例となる「安満遺跡公園」をはじめ、「今城塚古墳」や「高槻城

跡」、「普門寺」といった今後さらなる活用が求められる史跡の踏査、さらに「高槻 ま

ちかど遺産」もいくつか確認することが出来た。

 

 今回の研修は、観光考古学、文化財の保護と活用を考える上で数年来の企画であっ

た。まだまだ日本各地には魅力的な史跡があり、丁寧に踏査することが必要な街は多

い。

 

 令和4年度 第2回現地踏査『これからの文化財の保護と活用を考える -高槻市踏査

を例として-』はひとまずこれにて終了となりますが・・・、高槻は今後論文に取り上

げる際に再び訪れる必要があるでしょうね。

 

 これからも現地踏査を通じて、多くの街を訪れて「埋もれた歴史」を掘り起こしてま

いります(^^♪

東大寺俊乗堂(奈良県奈良市)

 

  【 東大寺俊乗堂 】

 

   所    在   地:           奈良市司町406-1

   拝観可能日:  7/5(俊乗忌) 12/16(良弁忌)

   拝    観   料:                 ¥600

 

 

 入母屋造り、錣葺。

 

 もと平重衡の南都焼き討ちにあった東大寺再興の功績で知られる俊乗房重源によって

建立された東大寺七別所の1つである浄土堂があった。浄土堂は平安末期の武将・田口

成良の鎮魂のために創建したという。

 

 成良は南都焼き討ちの折、平氏勢の先陣を務めるほどの勇将として知られていました

が、壇ノ浦の戦いで主家を裏切り源義経に味方し、平氏勢の内情を伝えるなどの功を立

てたものの、その後、不忠者として斬首された人物である。

 

 浄土堂は永禄10年(1567)、松永久秀三好三人衆三好長逸三好政康・岩

成友通)による東大寺大仏殿の戦いの兵火で類焼したために廃堂となり更地化してい

る。

 

 元禄年間(1688~1704)、公慶上人が重源上人の偉大な功績を称え、その菩

提を弔うため一堂を建立し、建永元年(1206)頃に奈良仏師で慶派の運慶(一説に

は快慶)作といわれる俊乗上人坐像を堂内に移し本尊とした。

 

 

 俊乗堂内には、俊乗上人坐像(国宝)のほか、快慶作の阿弥陀如来立像(重要文化

財)、平安末期の愛染明王坐像(重要文化財)が安置されている。

 

 限られた開帳であるが、慶派を代表する仏像が安置されており必見の堂宇であろう。

 

 (参考資料)

   日本仏像史     水野敬三郎 監修    美術出版社

   現地案内板