【 宇治川太閤堤跡 】
所在地: 宇治市菟道丸山203-1
宇治川渡河点として交通の要衝である宇治橋の下流、宇治川右岸に位置する。
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は伏見指月に築城を開始。築城当初は隠居所として
開始されたために大規模なものではなかったが、文禄3年(1594)、拡張普請を行
い、淀城を廃して一部の建物を伏見に移築して本格的城郭としての体裁を整えている。
城下には宇治川の水を引き入れた船入も造成され、城下町が整備されている。同年8
月には伏見城は完成し、秀吉は伏見に移っている。
徳川家康家臣・松平家忠は8月9日に秀吉から堤防普請を命じられたことが『家忠日
記』に記されており、これが文献上の初見である。築堤工事は伏見築城と並行して行わ
れており、文禄3年8月の段階では淀堤普請は終了し、槙島堤の工事がすすめられてい
たようである。
さらに10月には前田利家が宇治川の付け替え工事を命じられているほか、織田秀信
は伏見・小倉間の新堤を築堤し、宇治橋を破却したとされています。
宇治川太閤堤築堤の目的は、宇治川の治水ではなく、伏見港の機能を高めるためで、
朝鮮半島への派兵を行うための水運の拠点を築くことにあった。また、大和街道を伏見
城下に移し、さらに文禄5年(1596)には大坂と伏見を結ぶ京街道が整備され、伏
見を水陸交通の要衝として機能させることにあった。
平成19年(2007)、区画整理事業に伴い、弥生時代の方形周溝墓や竪穴建物、
江戸時代の瓦窯関連遺構が検出されている複合遺跡である「乙方遺跡」の発掘調査が実
施された際、護岸石敷遺構が検出。
平成20~21年度(2008~2009)の調査では新たに石出しや庭園遺構が、
平成23年(2011)には煉瓦窯2基を検出し、その結果、全長400m以上にわた
る治水遺跡であることが明らかになっている。また庭園遺構から出土した瓦年代が17
世紀末から18世紀初頭であったことから、17世紀末頃には護岸の埋没が進行し、1
8世紀末には全面的に埋没していたものと推定されています。
その後、宇治市による整備計画に基づき整備が実施され、宇治の新たな観光資源とし
て史跡を活用することとなった。「宇治川太閤堤跡」の一部を復元整備した【史跡ゾー
ン】、人々の憩いと賑わいの空間【交流ゾーン】には「お茶と宇治のまち交流館ミュー
ジアム」を整備し、茶樹に親しめる茶園を演出した【南エリア】が整備されている。
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宇治には、世界遺産「平等院」や「宇治上神社」、学術的価値のある「宇治橋断碑」
などがあることから、文化財の保護と活用を考えるには良い街である。
nihonshiseki.hatenablog.com
学術論文に取り上げる価値のある街であり、改めて時間をかけての踏査を行うつもり
です(^^♪ 皆様もさまざまな視点から踏査を行ってみては如何でしょうか。
(参考資料)
国指定史跡 宇治川太閤堤跡 宇治市歴史まちづくり推進課
現地配付パンフレット
現地案内板